近代曹洞宗の名僧、星見天海老師について
明治時代の曹洞宗師家を代表する人物の一人に数えられる星見天海老師と龍源寺は深い御因縁に結ばれています。
天海老師は、書においてはあの良寛さまと「漢字天海、仮字良寛」と並び称され、声明の節においては「天海節」として後の曹洞宗内でも現代まで称賛され、詩偈とその墨蹟から新井石禅禅師より森田悟由禅師と西有穆山禅師とともに明治曹洞宗の三絶に数えられ、宗門の本山分離問題においても総持寺側の仲裁役となり、大本山總持寺鶴見への移転・復興にも尽力されました。
龍源寺との御因縁は龍源寺の18世・徳水原松和尚との繋がりから始まります。江戸駒込の吉祥寺・栴檀林(駒澤大学の前身)で学友として共に研鑽を積んでおりましたところ、ペリーの黒船来航という世情不安から越後に戻ることが決まりました。天海老師は柏崎の出身で晩年も柏崎・福勝寺の住職となりますが、原松和尚の勧めによりこの龍源寺へ原松和尚と共に参りました。その当時は龍源寺17世・頓定恵参和尚が住職を勤めている時代でした。後に天海老師は龍源寺で過ごした日々のことを恩義に感じてくださり「温恭・篤実・厚道の尊宿」と恵参和尚について言及されております。嘉永6年から安政6年までの7年間、龍源寺を基点として修行に励まれた天海老師ですが、龍源寺では赤山義塾も開講されていたので赤山先生の教えも受けておりました。天海老師の遺稿集には、赤山先生が十日町へ移られてからの生活を労う漢詩も残されています。
龍源寺で過ごした後の天海老師は念願であった加賀・天徳院の奕堂禅師のもとで修行に励みます。奕堂禅師は大本山總持寺独住第1世となられますが、その厳しさから「鬼の奕堂」とも称されたお方です。奕堂禅師の随身から永平寺總持寺合わせて6名もの禅師さまが誕生しております。奕堂禅師がいかなる方であったかはこの事実からも想像ができます。その奕堂門下において後の大本山永平寺貫主・森田悟由禅師と共に「奕堂門下の二龍」と天海老師は称せられました。
その後、修行を重ねられた天海老師は曹洞宗管主の特別推挙により滝谷琢宗禅師の後を引き継ぎ、宗門の名刹・大雄山最乗寺の独住第4世となられました。時の最乗寺は独住第1世・畔上楳仙禅師に始まり、原坦山老師、永平寺63世・滝谷琢宗禅師と続き、天海老師の後任は後に總持寺独住第4世となられる石川素堂禅師と錚々たる顔ぶれです。最乗寺の住職となられた明治19年には再び龍源寺へと足を運ばれご挨拶に来てくださったそうです。天海老師、53歳の頃です。
その後の天海老師は曹洞宗大学林総監、曹洞宗大会議幹事の要職などにもつき、曹洞宗両大本山分離騒動の際は、内務大臣・井上馨より總持寺側の調停役に依頼されるなど、最乗寺住職を勤めながら宗門に多大な貢献がございました。そんな中、明治31年には總持寺大火という大事件も起きてしまいました。天海老師のご苦労が忍ばれます。
明治34年、突如最乗寺を退董され、越後柏崎の福勝寺へ戻ります。時に69歳。福勝寺は10歳で得度を受けた際の天海老師のお師匠さまのお寺です。実はこの福勝寺さまでは龍源寺19世の弟子の松原霊雲老師が住職を勤めていましたが、明治38年に遷化されていました。霊雲老師は19世の上足として将来を有望された方のようで、大雄山最乗寺内の報恩院の住職も勤めていたお方でした。ここにも天海老師と龍源寺の深い関係が見て取れます。大本山總持寺の貫主に推挙されたという話が天海老師にはあるようですが、それを固辞して郷里に戻っています。霊雲老師の後、天海老師が福勝寺の住職となりますが、本来は貫主や住職などあらゆる立場から離れ、悠々自適に過ごそうと思っていたのではないかと推察致します。ちなみに明治35年の道元禅師650回大遠忌では西堂を勤められ、大本山總持寺の西堂にも就任されました。
越後に戻ってからの天海老師と龍源寺は再び深い付き合いをさせていただいております。時には龍源寺にも立ち寄り、時には松之山温泉に来られた天海老師に龍源寺の住職が会いに行っていたそうです。龍源寺は19世・寂室真静和尚の時代でした。
龍源寺3世代にわたりお付き合いのあった天海老師は明治44年の大本山總持寺、横浜鶴見への御移転式典にも79歳の身で参加されました。翌年に発病され、大正2年に遷化されました。世寿、81歳。
星見天海老師百回忌
大雄山最乗寺独住第四世・天海皎月大和尚 百回忌
深見山龍源寺第十八世・徳水原松大和尚 百五十回忌
第十九世・寂室真静大和尚 百回忌
報恩法要厳修
あわせて青山老師による講演会も開催させていただきました。
当日午前七時四十五分に青山老師御到着の儀式五鏧三拝、八時半より青山老師による講演会、十時半より報恩法要という流れで執り行いました。
当日は九十名の檀家の皆様、五十名の龍源寺・智泉寺梅花講の皆様が駆けつけて下さいました。
この行事のためにご協力してくださった近隣寺院の皆様、龍源寺出入りの皆様、お手伝いをしてくださった皆様、ありがとうございました。
青山俊董老師 講演 「出会いは人生の宝」
出会いは人生の宝。まさにこの度の講演による青山老師との出会いは、私の人生の中において限りなく大きく、大切な宝物となりました。龍源寺住職が最も尊敬しているお方だと挨拶の中で申しましたが、その通りのお方でありました。
ある尼僧さまがこのようにおっしゃいました。「四,五年前に会った時とはまた雰囲気が変わったように感じました。
まるで禅師さまみたいだった」。
いま、ここを大事にしながら生きられているからこそ、年齢を重ねてなお輝きを増しておられるのだなと感じました。
お話はたいへん素晴らしく、なおかつそこに在るという雰囲気だけでこちらに影響を与えてくれるようなお方でありました。
ここに講演の一部内容を御紹介させていただきます。
「あの方に出会えた」「あのことに出会えた」「あの教えに出会えた」と思うには自分自身に出会いを感じ取る
アンテナがなければ成立しません。悲しみ苦しみを経験することでアンテナは立ちますが、幸せすぎるとアンテナは立ちません。
蓮華は泥の中から咲きます。きれいな水では蓮華は育たない。人間も同じ。悲しみ苦しみという泥を肥料にかえ、
自らの人生に花を咲かせていかなくてはならない。よき出会い、よき教えという縁を加えて花を咲かせていかなくてはならない。
縁を感じ取るアンテナ次第で花を咲かせるという結果は変わっていきます。
余生なんていう言葉はない。人の一生は円相の如く。いつでも終着点であり、出発点である。
ごまかしようのない今、ここにいる自分は今までの人生の総決算の自分である。
過去・現在・未来の三世通貫。前後裁断。今日、ただ今をどう生きるか。時間の使い方は命の使い方である。
つまらないつまらないと過ごす時間は、つまらない命の使い方をしていることと同義である。
その人のいくところ、とどまるところが浄土になる。その逆もしかり。自分の心次第でその環境は浄土にも地獄にもなる。
幽霊の絵は、「うしろをひくおどろ髪は過去をひきずる象徴」「両手が前にあるのはまだこない未来を求める象徴」
「足がないのは、今・ここ、という現在を生きていない象徴」幽霊の絵のような自分になっていないでしょうか?
「投げられたところで起きる小法師(こぼし)かな」失敗が恥なのではなく、こだわって起き上がれないのが恥なのだ。
ただ転ばずにまっすぐに行くよりも、失敗を踏み台にし、より高く。そしてまわりに優しくなれるとなおよい。
さらに成功・失敗にこだわらなくなるとなおよい。
瀬戸物と瀬戸物がぶつかると割れてしまう。どちらかが柔らかければ大丈夫。私が瀬戸物と気づく柔らかい心をもつ。
「松影の暗きは月の光なり」月光が明るいほど暗さは増す。教えという光に照らされて自らの暗さに気付くことが大事。
凡夫の目は他人の非を見つけ、仏の目は自分の非を見つける。自分の目ではわからない。
仏の心の目ならわかる。「気づく」ということが大切。
闇から光へ。光に照らされて自らに気づき、軌道修正をしながら生きていく。懺悔しながら誓願を立て、いま・ここを生きていく。
皆さま、この青山老師との出会いという縁で、自らの中の泥から、自分なりの美しい花を咲かせていただきたいと思います。
龍源寺と星見天海老師について
龍源寺の現住職が晋山結制の折に出版した『龍源の玉をばえても』に龍源寺と天海老師の関係が詳しくのっていますので、この紙面では簡単な説明にしたいと思います。
なお、天海老師がどのようなことをなさったかについては以下の略歴を見ていただきたいと思います。
星見天海老師は、「漢字天海・仮字(けじ)良寛」と書においてあの良寛さまと並び称され、
「天海節」と言われる観音懺法の独特の節を現代に残された御方で、宗門においても文化的にも功績を残されました。
そして明治の曹洞宗両本山分裂騒動をおさめ、能登の大本山総持寺の大火による横浜鶴見への本山移転・復興にも尽力されました。
宗門の名刹、大雄山最乗寺の住職をつとめ、授戒会の戒師やさまざまな重要な法要の導師もたくさん勤められました。
そのような天海老師と龍源寺の関係には、以外にもペリーの黒船来航が関わってきます。
当時、江戸駒込の吉祥寺栴檀林(駒澤大学の前身)で勉学に励んでおられた天海さまでしたが、
黒船来航による情勢不安・経済基盤不安定により、江戸に滞在し続けることが難しくなりました。
その時に栴檀林で出会い、一緒に学んでおり、うちのほうで修行しないかと誘ったのが
のちの龍源寺第十八世・徳水原松老師でありました。
龍源寺の当時の住職は第十七世・頓定恵参老師でありましたが、天海老師はこの時の龍源寺住職に恩義を感じて下さり、
自らの自伝に「温恭、篤実、厚道の尊宿」と述べております。
龍源寺に嘉永六年にきてから安政六年までの七年間、龍源寺を基点としてこの地方で過ごされました。
安政三年に龍源寺では赤山義塾が開講されましたので、赤山先生にも学んでいたようです。
無理がたたり、体を患ってしまうこともありましたが、龍源寺を過ごしてのち
念願であった金沢・天徳院の奕堂禅師(のちの大本山総持寺独住第一世の禅師さま)の門下に入り懸命に修行され、
天海老師の活躍が始まっていくことになります。
その後、龍源寺に来山されたのは明治十九年。大雄山最乗寺独住第四世に就任された年のことでありました。
修行時代にお世話になったということで御挨拶に参られたようであります。
そして明治三十四年に最乗寺の住職を退董され、それからお亡くなりになるまでの約十年間の間に何回か龍源寺を訪ねてくれました。
龍源寺にある赤山先生顕彰碑も天海老師の筆によるものであります。
そして松之山温泉にも何度か来訪し、その度に龍源寺第十九世・寂室真静老師を誘い、親しくお会いしていたようであります。
このことからもわかるように龍源寺住職三世代にわたりお付き合いをいただきました。
明治四十四年十一月四日、横浜鶴見で大本山総持寺御移転の式が挙行され、七十九歳の天海老師は出席されました。
翌年二月に発病され、大正二年に遷化されますのでまさに命の続く限り宗門のために活躍なさった生涯でありました。
星見天海老師略歴
- 天保四年
- 出生。
- 天保十三年
- 福勝寺十八世に就いて得度。
- 嘉永四年
- 駒込吉祥寺栴檀林越後寮に入寮在学。
- 嘉永六年
- ペリー黒船来航により江戸で学ぶことが困難になり、龍源寺に安居。赤山義塾で学ぶ。
- 安政六年
- 龍源寺末、割野薬師堂寒坐中、耳を患う。療養後、加州天徳院に掛塔。奕堂門下の人となり本懐を遂げる。
後の永平寺森田悟由禅師が維那を勤める。奕堂門下に悟由・天海の二龍有りと称せられる。この時、二十七歳。 - 明治元年
- 芦ヶ崎龍昌寺初会に出会。会津征伐の大軍休泊するも結制無事円成。
- 明治三年
- 福勝寺第十九世に就く。この時、三十八歳。
- 明治十七年
- 永平寺、単頭に就く。
- 明治十八年
- 大雄山最乗寺独住第三世滝谷琢宗大和尚、永平寺の禅師に就く。
永平寺滝谷琢宗禅師、総持寺畔上楳仙禅師両名の懇篤なる勧諭に最乗寺後席を内諾する。 - 明治十九年
- 大雄山最乗寺晋山祝国開堂。独住第四世。この時五十三歳。
- 明治二十年
- 曹洞宗大学林総監に就くが九ヶ月で依願退職。大雄山内の大営繕に従事。
- 明治二十五年
- 最乗寺開山了庵慧明禅師五百回遠忌に因み道了尊大祭御開帳挙行。大祭中、総持寺分離宣言書到着。
永平寺森田禅師より総持寺分離大事件につき来議を乞うとの特命有るも大祭中を以て辞す。 - 明治二十六年
- 曹洞宗事務取扱の辞令を受ける。
- 明治二十七年
- 両本山大葛藤を根蔕より載断。
- 明治二十八年
- 両本山復旧
- 明治三十一年
- 総持寺大火。貫首禅師、石川監院とともに焼跡巡視。
- 明治三十三年
- 総持寺再建副総裁となる
- 明治三十四年
- 三月、畔上禅師退院上堂白槌師を勤める。続いて総持寺新命西有禅師へ内賀。
更に石川素童監院と最乗寺住職交代の内諾をする。
四月十一日午後八時、最乗寺退院式挙行。住山十七年。開山了庵慧明禅師と同年なり。時に六十九歳。
十二日午前一時、随伴一名を従え下峰。十五日、無事福勝寺に到着。
七月、総持寺西堂職の辞令到着。 - 明治三十五年
- 永平寺にて道元禅師六五〇回大遠忌。西堂と総持寺専使代香を勤める。
- 明治四〇年
- 総持寺鶴見移転認可。
- 明治四十一年
- 鶴見新山拝登。
- 大正二年
- 五月十三日午後九時、示寂。世寿八十一。
永平寺森田禅師の特命にて雲洞庵新井石禅老師来弔、寝所にて展具三拝、以て大禅師哀悼の情を伝える。
十七日荼毘式。遺命により舎利を福勝寺の他、最乗・慈光・香積に塔す。 - 遺偈
- 「八十春秋弄風煙 今歳方堪謝諸縁 閻王猛声問世寿 雖卑与釈尊同年」
正當午時献供諷経
講演会を終え、いよいよ天海老師百回忌法要がはじまります。
導師は講演をしてくださった青山老師につとめていただきました。
まず、蜜湯・御飯・嚫金(僧侶たちからの布施)・お菓子を仏さまへ供え、
そのあとお茶を祖師であり供養の対象である天海さま、原松さま、真静さまに丁寧に供えられました。
あわせて導師が十八回もお拝をつとめるものであります。
お供えが終わり、導師が香を拈じ法語を述べた後、導師はじめ東西の両班にいらっしゃる
方丈様方に焼香礼拝していただく出班焼香がつとまります。
宗門において最も敬意を表する時に行われる儀礼でお釈迦さまの三佛忌や達磨忌、両祖忌、開山忌などに行われるもので、
禅宗独特の儀礼です。
出班焼香が終わると宣疏跪炉という儀礼に入っていきます。
維那老師が導師に代わり疏というものを読み、そのあいだ導師が香を焚きます。
この儀礼も大般若会など特別な時に行われます。
禅宗における疏は四六駢儷体を用いた表白文(佛祖に法会を執行すること、その目的などを申し上げる文)のことをいい、
維那が疏を宣読するあいだ、導師が柄香炉をもって長跪します。
そして、僧侶たち全員で観音経を読み、皆様からご焼香をしていただきました。
読経中に行道といって堂内を巡りますが、元来、釈尊に敬意を表するために行われた進退でありました。
現在は僧侶の数がそろっていれば供養の法要の時に御経を読みながら行道をします。
供養の対象者に対する敬意になるのではないかと思います。
御経が読み終わると維那老師によって回向が読まれます。回向はいま読んだ御経の功徳を普く回らすために読まれます。
最後に龍源寺住職と副住職が導師をつとめられた青山老師に謝拝という御礼の意味を込めたお拝をして
法要は終了となりました。