赤山義塾について
- 赤山義塾は、1856年(安政3年)から1870年(明治3年)までの期間に龍源寺で高橋赤山先生によって始められた当時の妻有地方を代表する学舎でございます。義塾とは身分に関係なく平等に教育を受けられる機関の意味です。
塾生からは渋沢栄一氏とも懇意にあった当時の経済界を代表する人物の一人・福島甲子三氏や後に国会議員となる桑原重正氏、自由民権運動の活動家である島田茂氏など国や地域の政治・経済・文化をリードする人材を多く輩出いたしました。曹洞宗の星見天海老師も当時、龍源寺に掛錫をしていた折に漢学などを学んだと言われております。
門人が増え、龍源寺が手狭になったことから現在の十日町市高山に移転されました。明治5年に学制が発布され、明治7年に川治校の開講にあたり赤山先生は現在で言う校長として採用されました。これが現在の十日町市川治小学校の始まりとなります。
赤山先生は長岡藩の出身でございましたが、故あって秋山郷に身を隠していました。そこで龍源寺末寺・龍昌寺の住職と出会い、それが縁となって本寺の龍源寺で赤山義塾が始まりました。今でも龍源寺には先生屋敷という地名が残り、龍昌寺には先生部屋と呼ばれる一室がございます。
当時学ばれていた学問に陽明学があります。その中心的な思想は知行合一、知識と行為は一体であり、本当の知は実践が伴わなければいけない、というものです。多くの赤山義塾生のその後を見るとまさしく知行合一の精神で生き抜いたのではないかと感じるところでございます。当時の明治維新の立役者となった人物たちも触れた思想とも言われています。